活動報告

駒ヶ根の明日を語る会

若者が担う地域づくり

第3回9月24日18時~20時

駒ケ根駅前アルパ3階多目的ホール)

NPO法人「農音」(愛媛県松山市)田中佑樹代表理事

白戸洋松本大学教授

駒ケ根の明日を語る会」(代表・伊藤祐三前共同通信論説委員)は9月24日、駒ケ根駅のアルパ3階多目的ホールで地域づくり連続講座第3回「若者が担う地域づくり」を行いました。NPO法人「農音」(愛媛県松山市)の田中佑樹代表理事と、白戸洋松本大学教授の2人が登場。地域の将来を開く若者と、どんな活動をしていけば良いのか。2人が行う現場からの報告に、参加した多くの方が耳を傾けました。
 東京でのバンド活動から瀬戸内海の島でのミカン栽培に転身した田中さんは、ゆったりとした島での暮らしをしたいと思ったと説明。わいわいやる仲間を集めたいと、移住促進に取り組み、これまでに58人の移住者を迎えたと話しました。スーパーなどを回って仕事を用意したり、空き家を紹介したりしたほか、1泊2日の移住体験なども行ってきました。しかし、人口減少は当面、止めようがなく人口が減っても島を維持できる体制づくりを模索していると話しました。過疎先進地として、人口減少対策は気が付いた時は手遅れといい、早めの取り組みを訴えました。
 白戸さんは、地域で若者を育て地域に返す大学での教育を紹介。最初から大きな期待をせずに見守ると、やがて大きな力を発揮すると話し、長い目で若者を育てていくことが大事だと話しました。松本市郊外で取り組んでいる地域づくりでは、路線バスの廃止後に始めたコミュニティーバスが1年で乗客が増え黒字化したといい、じっくりと取り組めば成果は生まれると強調しました。地域づくりは地域でどう生きるかを考えるかだとして、こつこつと暮らしを改革していくことが大事だと話しました。
東京でのバンド活動から瀬戸内海の島でのミカン栽培に転身した田中さんは、ゆったりとした島での暮らしをしたいと思ったと説明。わいわいやる仲間を集めたいと、移住促進に取り組み、これまでに58人の移住者を迎えたと話しました。スーパーなどを回って仕事を用意したり、空き家を紹介したりしたほか、1泊2日の移住体験なども行ってきました。しかし、人口減少は当面、止めようがなく人口が減っても島を維持できる体制づくりを模索していると話しました。過疎先進地として、人口減少対策は気が付いた時は手遅れといい、早めの取り組みを訴えました。
 白戸さんは、地域で若者を育て地域に返す大学での教育を紹介。最初から大きな期待をせずに見守ると、やがて大きな力を発揮すると話し、長い目で若者を育てていくことが大事だと話しました。松本市郊外で取り組んでいる地域づくりでは、路線バスの廃止後に始めたコミュニティーバスが1年で乗客が増え黒字化したといい、じっくりと取り組めば成果は生まれると強調しました。地域づくりは地域でどう生きるかを考えるかだとして、こつこつと暮らしを改革していくことが大事だと話しました。

 

1000人でも回せる地域を
☆田中佑樹・農音代表理事(愛媛県松山市)

 

 愛媛県松山市で生まれ、高校まで育ちました。高校の時に音楽を始め、大学でもバンド活動をと東京に出て卒業後も続けました。リハーサルスタジオでアルバイトをしながらライブをする生活でした。30歳近くになり、音楽で売れることが考えづらくなり、自分が楽しむだけの音楽であれば、東京にいる必要がないのではと考えました。スタジオに通ってくる若者たちと、田舎でのんびりと暮らして自給自足のような生活ができたらいいねと夢を語り始めたことが、この活動のきっかけになりました。

島でのこれまでの活動について話す田中佑樹・農音代表理事

32歳で移住しました。(その前に)東京にいるうちにできることをやっておこうと、雑誌編集部に就職しました。田舎に若い人を呼び込むには、情報を発信する必要があります。情報の扱い方や文章の書き方、写真の撮り方を学べると考え、2年弱働き、移住を決行しました。 知らない土地で知らないおじいちゃんやおばあちゃんと暮らすだけでは寂しいというイメージがあり、同世代でわいわいできる仲間がほしい、仲間集めをと移住促進を続けています。
移住先は中島という島です。愛媛、広島、山口県との真ん中辺りにあり、1周25キロぐらいです。人口は現在2400人。50年程前は1シーズンの収穫で家が建つといわれたほど、高級ミカンで知られた島でした。そのころは人口1万5000人もいたそうで、50年で6分の1以下まで減少してしまいました。
島でのこれまでの活動について話す田中佑樹・農音代表理事
 イノシシが増えて年間500~600頭駆除していますが、2000頭ぐらいはいるのではといわれています。移住3年目に狩猟免許をとり、80数頭捕りました。「地域再生大賞」で表彰していただいたこともあり、島として知名度が上がり、移住の島として知られるようになってきました。

 

▽マンツーマンの対応で移住者呼び込む

 

 代表理事としてやっているNPO法人「農音」は、音楽仲間が集まり、地域活性化に農業を盛り上げなくてはならないだろうと名前をつけました。移住まで仲間と作戦会議をしました。人口減少の問題は、産業が廃れ、中島でいえば害獣のような別の問題が出てくる負のスパイラルになっています。改善のため、いろんな切り口があると思いますが、若い人を補充していくことが活力がわき、新たな産業や動きが生まれるのではないと考えました。まずは若者の移住が最優先です。島で若者を呼び込む動きをしたいと、島の市支所長に相談しましたが、この島は、そんな島ではないからほかでやりなさいといわれました。もっと体制ができている島でやった方が楽だよという意味でいわれたのでしょうが、僕からすると、せっかくやろうというのにと思ったことが原動力になっているような気がします。
 バンドマンだったので地域活性化のノウハウはなく、手探りで思いつくことをやってみて、ダメなら何がダメかをブラッシュアップしていく戦法でやっています。中島のことなら大体のことが分かる情報とコネクションが広がりました。やってきた音楽がジャムセッションや即興音楽で、どんな人とセッションしても引き出しからネタを出せるようにしてきました。今でも、どんなタイプの移住希望者が来ても、話を聞いて対応できるような体制をつくっています。何を求めているのか聞き答えるマンツーマンの対応で、NPO法人を通じた移住者は58人になりました。その人たちが島の人や移住者同士で結婚をし、小学校のある学年は半分以上が移住者の子どもという状況になっています。小学校全体は40人ほどなので、一人の重みがあります。街で暮らしていた人が、より自由で自己実現感を得ながら暮らしていける場所が田舎にあるよという提案をしています。
 最初の1年は島のことをまったく知らず、ミカンの勉強をと考え、柑橘類の加工品工場に勤めました。2年目からNPO活動に力を入れました。最初は、SNSで島暮らしを発信しました。30分でこんなに魚が捕れたよというような都市部の方がうらやましがるような情報を発信してきました。移住したい方が住む家がないと進まないので、家をすぐに紹介できる対応を整えました。農業ではない田舎暮らしをしたい人もいるので、農協やスーパー、老人ホームなどを回り仕事がないかを聞き、すぐに現金収入を得られる体制をつくりました。農業をされる方の場合は高齢の方がやめる畑を引き継ぎ、みかんを翌年から収穫できまるようにし、販売事業もやっています。移住者が20人近くになると、松山市の空き家バンク事業の補助を受けました。紹介用の動画コンテンツは週刊誌に取り上げられました。
 移住体験イベントもしています。仕事や家を紹介するのが一般的だと思いますが、島の空気感や生活を体験してからではないと、島に合うかは何ともいえません。移住者の家に1泊2日し、食事や近所のおじさんとの付き合いなど島暮らしのリアルを伝えています。空き家バンクはインターネットでの発信がメインです。体験イベントと連動させ、空き家を紹介しています。土地付きで100万円ぐらいで買える家もあるので即決する方もいます。

 

▽人口減対策、気づいたときは手遅れに

 

 シーサイドワーク推進はホットな部分です。ミカンの生産量が下がり売り上げも落ちているので、松山市と愛媛県、JAが連携して島でミカンを作る若者を呼び込む取り組みを始めました。10~2月の収穫時期にアルバイトとして来てもらっています。
 中島を中心とする忽那諸島の産物を販売する「くつな商店」という事業を立ち上げ、育っていけば株式会社として切り離す考えです。物ではなく島を売っていきたいので、50品種ほどが作られる柑橘類から毎月、時期のものが届く定期便をしています。柑橘事情をぎっしり書いたものも届けていて、主力商品になり250万円ほどの売り上げになっています。駒ケ根市の高齢化率は全体では30%台だが、周辺はもっと高率の地域もあると聞きました。松山市も高齢化率が60%台の島もあります。中島の人口2400人といいましたが、毎年100人減っていて、20年後はどうなるのかという状況になっています。
農業だけでなく、スーパーや病院、老人ホームなども人手がなく、移住者を呼び込んでといわれるのっぴきならない状況に来ています。僕らも危機感を持ち、このままでは無人島になってもおかしくないなと考えています。
 今日、駅周辺を見た感じでは、駒ケ根市を今すぐ何とかしないとという危機感を持っている方はほとんどおられないのではと思いますが、過疎先進地としていうと、気づいた時には遅いです。人口減少が進むと、あらゆるものが小規模になります。そうすると、カフェをつくろうとしても事業として成立しなくなってしまう。仕事のあっせん、空き家紹介も価値があれば不動産業者が入れますが、事業としてできないのでボランティアでやるしかなくなってきます。人が減り、地価が下がると手が付けられなくなってしまいます。移住促進の切り口は、お金ではなく、クオリティーオブライフです。海や山で、こんなに食べ物が取れ、お金をかけず、こんな生活ができるということを発信するのが大事かなと考えています。
 草を刈ってほしい、買い物の足がないなど細かい困りごとが若者に集中してくるので、コミュニティービジネスとして回せば成立するのではと思っています。移住者が増えると問題になるのは移住後の生活サポートです。いろんな人が来るので、問題が起きることもある。そういう人たちをケアする体制として島生活円滑会をつくり、集落ごとに世話役を決め丸く収めてもらうようにしました。
一番の問題は地域のコミュニティー、自活力が弱ってきていることです。日本中で人口減少が起きているので、中島を統括する松山市も人口が減り、税収も減る。島のことは島で頑張りなさいといってくるのが目に見えてきてます。どうするかを今のうちに話し合う必要があると感じています。
 今の人口減少は止めようがありません。2400人から1000人ぐらいまでは減っていくでしょう。そこで止められるかが勝負所だと思っています。1000人でも回っていけるダウンサウジングのモデルを話し合う必要があると思い、愛媛大学の教授に相談をもちかけています。集落の合併も出てくるしょうが、盆踊りのリズム一つとっても集落で微妙に違います。文化を統合して行くことがすごく難しい問題と感じています。
 柑橘産地としては、生産量が減ってもいい柑橘をつくっていけば生産者は生きていけます。ただ、産地が弱小化すると運送手段がなくなるなどの課題はありますが、技術革新で道が開ける気もします。それにしても若い人がいないと大変だと考えています。
 この1~2年、60代の移住者が増えています。老後資金問題が騒がれましたが、生活費を抑えて悠々自適に暮らせる場所を探しているのだと思います。65歳ぐらいですと地域づくりの有力な担い手です。協力していただける仕組みを考えていかないといけません。

―駒ケ根市は特産品づくりをしていますが、なかなかうまくいっていないのが現状です。名産品がない中で、どういうところを強みにして発展させるのがいいでしょうか。
 田中 年間100万人もの観光客が中央アルプスに来ていると聞きました。しかし、お金を落とせるポイントがないようです。商店街を歩くとカフェらしいものが少ないですね。キャッチする仕掛けがないのかなと思います。僕だったら、お客さんが必要なものをバラバラにおき、動かざるを得ないような状況をつくることを街単位でやったらどうかと思います。どうしても通らざるを得ないポイントがあれば、山で使うアウトドアの店を離しておいてみるとか。意地悪ではなく、街を楽しむ仕掛けづくりです。

 

地域をどうするより、どう生きるかを考えることを
☆白戸洋・松本大教授

 

 横浜市で生まれ神奈川・逗子で育ち、大学では農業経済を勉強し、建設コンサルタントに就職しました。アジア・アフリカで農村開発の計画策定をし、バブルの頃の企業戦士として、子どもが生まれても6か月海外ということもありました。仕事は面白かったが、知識はあるが知恵がないことに気づきました。信州に来た頃、農家から大根をもらい、本を読んで漬物を作ったがまずい。しかし、公民館でおばあちゃんの漬物を食べるとうまい。どうやって作るのかと聞くと、塩も水も適当だという。実際の経験がないとできないことに気が付いたんです。知恵は経験がないとできないですね。

若者を長い目で見守ってと話す白戸洋・松本大教授

玉井先生という農学の面白い先生がいると聞き、会いに行きました。ODAで、こんなことをしてきたと説明すると、それは戦争中の日本の農村のようだなと先生はいいました。戦争中、農村は供出をさせられ、戦後は補助金が降ってきた。しかし、それは農協の窓口でハンコをつかないといけない。君は悩める農協職員だな。出世を考えれば農協を、農家のことを考えると農家を向かないといけないというわけです。ああ、この人は私のことを分かっていると思い、弟子入りしました。3年間、貯蓄で生活し、東京へ戻り、また海外の仕事をしようと考えていました。
しかし、気が付きました。例えば、自分の街の将来を考え眠れないかというと、そうではない。しかし、自分のことは別です。ある公民館長が「おれは地域をどうしようかと思ったことはない。地域で自分がどう生きていくかだ」と話したんです。ハンマーでたたかれたようでした。

私は人のため、アジアや信州の農村のためとやってきた、しかし、自分がどこにも生きていないんです。人のためとは、にんべんに為と書き、偽善の偽です。人のためというと偽物になると思いました。ここに残ることにしました。

 

▽地域の中で若者を育て地域に返す

 

 2002年に松本大学ができ、地域の若者を地域で育て地域に返すというコンセプトで始めました。そこで教員になりました。基本は、その土地で暮らす、生きる、食べていくということを外から来た人も中にいる人も、きっちりできるかということだと思う。街づくりは、一人一人がきちっと暮らし、ちゃんとした住みやすい環境をつくる中で、気が付いたらできているということが大事。自分のことでないと本気になりませんが、人間は社会的動物で一人で生きていけないんです。飯も一人で食べたら味気ないですよね。みんなが暮らす中で、ちょっとずつつながっていく。そういうものが必要で、いきなり、地域を活性化してピカピカ光るようにはできないと思います。自分自身がどう生きるかを原点に、地域と関わっていくことではないか。それが学んだことです。
 若い人の話をします。松本大学を立ち上げたころ、長野県の高校生が県内の大学に進学する割合は47都道府県中47位で、県外へ出るとほとんど帰ってこない状況でした。これでは人がいなくなる。若者の地元定着を掲げました。大学の開始時間も駒ケ根や中野、山梨県内の一部などから通える時間にしました。地元に残る若者を育てるなら、地元でしかできない教育をやろうと。野球部の部長をしていますが、県内の野球少年は力のある子は高校から県外に出てしまう。一つの価値観でやるとスポーツも勉強も最後は東京へ出てしまうと思います。だから、価値観そのものを変えないとという思いで取り組みました。
 教授会では、地域と何かやるのはどうだろうかと反対されました。地域を担う子どもを大学の中だけで育てるのは無理で、地域に出し地域と連携し育てようとしました。8割以上は地元出身で、8割以上は県内で就職しています。県内に必要なことを勉強しようと、企業経営から福祉、観光、行政まで設けました。定員を少なくして学科を増やしています。
 実は大学をつくるときに、地域貢献はしませんといいました。大学生が地域に行っても大したことはできないんです。むしろ、ご迷惑をかけます。地域に迷惑をかけながら学生を育てることを徹底しました。30歳ぐらいになると力が出てきますが、20代の若者は育ててもらうのが大事だと考えています。例えば、松本市街地で学生が居場所づくりとして10年前にカフェを始めました。最初は定休日のお店を借りてやっていましたが、その後、常設になりました。若者は先を見る目を持っているが、10年、15年たって生きてきます。今の若者で判断するのでなく、未来にかけてもらいたいなと思っています。

意見交換の司会をする伊藤祐三・前共同通信論説委員(左端)

20年やってきて大学からでは遅いと感じ、高校生から始めています。飯田市で連携して地域人教育を最初に始めました。飯田市の高校生は大学などに進むと4割ほどしか帰ってこない。リニア新幹線ができるともっと増えるという危機感があります。地元にしばりつけるのではなく、地元のことを知らないまま選択をしているのではないか、地元のことを知ったうえで選択をしてほしいと、関心を持って地域を学ぶといったことを全市でやろうと、8年前から始めました。当時、市長が飯田市から出ていく人はと聞くと6割から7割いました。今は逆転しました。若者が活躍できる場を作っていくのです。中心市街地で高校生がいろんなイベントをやり、生き生きと生きています。県内の商業高校全体に波及し、デパートサミットという授業が始まりました。月1回、大学でマーケティングと地域の勉強をし、地域に合う産物を開発しデパートで売ります。赤穂高校はソースカツどんをアレンジし、よく売れていました。

 

 

▽外の目を入れ、懸命に地域を考えよう

 

 松本市の郊外で地域づくりに取り組んでいます。8年余りやり成果が出始めています。路線バスが廃止されコミュニティバスを走らせたところ、1年やったら黒字になりました。買い物便や通学便など毎日、違うバスが出ます。通院便は曜日によって停留所が変わり、病院に行くおばあさんの家の前に停留所を置くのです。バスに乗る1時間前に茶話会をして出かけるということをしたら乗降客が増えたんです。若い人たちも入ってきて、移住者も来ました。
外の人の目を入れ、自分たちも地域のことを一生懸命考えることだと思います。学生が地域をつくることは住む人の心を変えることだ、心さえ変えればいろんなことができると話していました。こつこつと自分たちの暮らしを改革することが一番の近道だと思います。
 田中 今日、ここへ来て駅前がこうした様子だとやばいなと思いました。みなさんは、どう思っているんでしょうか。
 -観光客が山の中で完結している。街の中へ引っ張って来る仕組みをつくらないといけないと思っています。
 -私は、何をしたら面白くなるかなと考えています。例えば、高校生に店で料理を作ってもらうことをしたら、親しみが持てるのではないかと思っています。
 白戸 商店街の振興策は売り上げ増や来客を増やすことでしたが、人口が減る中では、よそから奪わないといけません。松本市のある商店街では、違う価値をつけて売ってはどうかと考えました。子育て支援や産地と交流をしたり、カフェを設けておばあちゃんたちの居場所づくりをしたりしています。
今年の学生の卒業研究で、暮らしのテーマパーク型商店街という提案がありました。松本市は美ヶ原や上高地などに来る人が減っています。しかし、松本山雅が試合をすると年間10万人ぐらい入りますが、観光客にカウントされません。こういう人たちが好むのは街歩き。テレビも街を歩き、人と出会うことが魅力としてクローズアップされる番組が増えています。東京の谷中など暮らしの中に観光があるように変化が出ています。食べ物も名産品ではなく、松本や塩尻の山賊焼きは年15億円ぐらいの経済効果があります。非日常の中で日常を体験することが魅力となっているんです。旅館には泊まるが、食事は外で食べるように。ものからことへといいますが、人が介した街の魅力を発信することが大事です。新しい商店街のやり方があるのだと思います。

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