活動報告

駒ヶ根の明日を語る会

商店街復活のヒント

第2回8月26日18時~20時

駒ケ根駅前アルパ3階多目的ホール)

高岡はつえ・テラスオフィス(沼垂テラス商店街)専務(新潟市)

原雅廣・匠の町しもすわあきないプロジェクト専務理事(長野県下諏訪町)

「駒ケ根の明日を語る会」(代表・伊藤祐三前共同通信論説委員)が開く地域づくり連続講座第2回は「商店街復活のヒント」をテーマに8月26日、駒ケ根駅前のアルパ3階多目的ホールで行いました。ゲストは、寂れた卸売市場を丸ごと引き取り再生につなげた高岡はつえ・テラスオフィス(沼垂テラス商店街)専務(新潟市)と、空き店舗ゼロの人気商店街を育てた原雅廣・匠の町しもすわあきないプロジェクト専務理事(長野県下諏訪町)の2人。商店街のにぎわいは駒ケ根市でも大きなテーマです。多くの人が駆け付け、実績を重ねてきた2人の取り組みに質問を重ねていました。
高岡さんは、地元・沼垂を子どもたちが誇りをもって語れる街にしたいとの思いから始めたと説明しました。会社を設立し、数店舗しか残っていなかった卸売市場を土地、建物を丸ごと引き受け再建をスタート。ここでしか出会えないもの・人・空間の提供をコンセプトに、一緒にやっていける人たちを集めていったと話しました。レトロな雰囲気を気に入った人たちが少しずつ出店し活気が戻り始め、ユニークな店が次々と出店、空き店舗はなくなりました。周辺の空き家の活用にも乗り出し、ゲストハウスもでき、多くの人が訪れるようになりました。
商店街はものではなくことを売る場にしてはと原さんは話し、工業の街にふさわしいものづくりを商店街でやってもいいと考えたといいます。手作りのスピーカーや、椅子の修理などクラフト作家が集まり、移住者も増えていきました。おかみさん達の近所付き合いが、こうした人たちを受け入れる力となったと説明しました。できる人ができることからやるという、ゆるいつながりが活動を持続させる秘訣とも話しました。さらに、地元のクラフト作家の展示販売会を東京で独自に開き、地域を売り込んできました。こうした取り組みが若い人たちをよそ者から担い手に変え、街づくりを次の世代につなげていくことにつながると話しました。

 

子どもたちが自慢できる街にしたい
◎高岡はつえ・テラスオフィス(沼垂テラス商店街)専務(新潟市)

 

高岡はつえ・テラスオフィス専務の話に、参加した多くの方は聞き入っていました。

まずは、沼垂の歴史的な説明をさせてください。「沼」に「垂」と書いて「ぬったり」と読める方はおられないと思う。だからこそ、この地名はインパクトがあります。私自身はいい地名だと自慢に思っています。沼垂は日本書紀に書かれていた、北方の人に備える柵が由来といわれています。
私たちの商店街は200メートルほどで、沼垂寺町といわれるほど7軒のお寺に囲まれています。以前は周囲に石油タンクや大きな煙突が建ち、3つの大きな工場があり、高度経済成長期には朝から晩までフル稼働していました。労働者の方々は仕事が終わると沼垂に来て、娯楽や飲食で栄えた場所でした。家族の食を支える、青果中心の市場もありました。映画館もありましたし、人と物であふれていた歴史があったんです。

しかし、3つの大きな工場のうち2つは撤退しました。2013年ごろには、シャッターが降りっぱなしで、街は冬眠したようになってしまいました。経営者が年をとられ後継者がなく閉めてしまったり、郊外に大型店ができたりといった影響があり、わずか数店舗を残し、まさにシャッター通りになっていました。しかし、ここ数年、変化が起きました。この土地のノスタルジックでゆったりした空気感に若者たちの出店が相次ぎ、見直され始めたのです。
最初の変化は10年のことです。佐渡島の牛乳を使ったソフトクリームと総菜の店ができました。向かい側にある大衆割烹の2代目で料理人である私の弟が、寂れた通りでチャレンジしようと店を出したんです。その1年後、この場所を気に入った30代の若い夫婦が隣にカフェを出しました。旦那さんが家具職人で、奥さんは染色家です。さらに、このカフェにコーヒーを飲みに来た30代の夫婦が気に入って、その1年後に陶芸工房をオープンしました。2人とも岐阜の多治見で陶芸を勉強され、工房の場所を新潟で探していたのです。1年で1店舗とスローな流れですが、3年間の3店舗が沼垂を大きく変えるきっかけになりました。こんな場所にしゃれた店ができたので、メディアの取材が入るようになりました。出店の相談も相次ぎ、ここはエネルギーのある場所だと確信しました。将来やるべきことが明確になり、再生のプロジェクトにつながっていきます。
一帯の店舗の土地と建物は、市場組合が持っていました。組合は高齢化による組合員の減少と事務管理能力の低下に陥っていました。にも関わらず、組合の規約があり、先の3店舗は店子として出店を認められましたが、組合員以外の出店はだめだといわれました。弟が仕入れに行く卸売市場に組合のキーマンの方がおられ、情報交換をさせてもらっていました。あるとき、その方が、そこまでいうなら買い取ったらと提案したのです。買い取りなんて想定していませんでしたし、大きなお金もかかります。非常に悩みました。もし、事業にしたらどうなるかと数字にしました。賃料の見込みや融資への返済などのプランを描き、地銀に持って行くと面白がってくれたのです。ちょうど地方創生が言われ始めた時期で、なんと数千万円を借りることになり、プロジェクトが動き始めました。

 

▽コンセプトは古くて新しい沼垂

 

14年3月、管理会社としてテラスオフィスを設立し、プロジェクトをスタートさせました。管理業務は個人でもできますが、街づくりをミッションにしようと考え、動きやすいように会社組織にしました。私は会社に勤めていて、それなりに安定した収入がありました。しかし、弟が料理人をしながら街づくりをするのでは体がもたないと思い、私が会社を辞めて一緒に会社を興すことにしました。当初は2人でがむしゃらに基盤づくりをしました。生まれ育った街がにぎやかになることは面白いことです。幼い頃は市場機能がしっかりあり、人と人のふれあいや人情が目に焼き付いていました。その風景を取り戻せるならと、純粋な気持ちで加わりました。子どもたちが大人になった時、沼垂という場所が自慢できる場所であってほしいんです。いったん進学や就職で外に出ても、生まれ育った街はすごいいい所だと言ってほしいものだと頑張っています。
コンセプトは古くて新しい沼垂。歴史・文化・景観を生かして、ここでした出会えない、もの・人・空間を提供するということです。このコンセプトを発信するツールはSNSです。お金がないところからスタートしましたので、フェイスブックやインスタグラムを使い、ホームページに誘導しています。
ほとんど変わっていない、この土地の風景を生かさない手はないと考えました。まずは事務所をつくりました。小さなスペースをリノベーションしました。外側の(シャッターの)さびと対照的に、内部はきれいにしました。これがコンセプトである、古くて新しい沼垂を具体化した形です。ここには、たまにネコが出勤する設定にしています。
古本屋や居酒屋、北欧雑貨、ハンドメイドのアクセサリー、ガラス工房、花屋、ダイニングカフェができました。中古の足場板を使った店もあります。経営者の中には移住されて来た方もいます。天然石アクセサリーや家具と食品、フローリングのショールーム、観葉植物店を兼ねた建築設計事務所、コーヒー店などもできました。
シェアスペースもあります。いろんな方にチャレンジしてもらう場所で、日替わりや週替わりで場所を提供しています。例えばパン屋やケーキ屋などが登場しています。市場時代からある八百屋もあります。近くに古民家があり、アトリエギャラリーにしました。こうして15年4月、沼垂テラス商店街という名前で新しい商店街を誕生させました。
先ほど挙げた、ここでしか出会えないもの・人・空間というコンセプトは重要です。私たちの商店街は新潟駅から歩いて15分ほどかかり、なかなか来づらい場所です。地方の方はクルマで動きますからね。そんな場所に、何を提供したら来てくれるのかと考えて作ったコンセプトです。このコンセプトに合うお店に入ってもらって、その店を魅力に感じる人に来てもらおうという思いを込めました。

 

▽オリジナル商品の開発にも挑戦

 

課題はあります。一つ一つが小さな店です。出店している世代は30~40代の子育て中で、ワークライフバランスを重視するので、きちんとお休みをとります。私たちの商店街は一斉に休むのではなく、それぞれの店の都合です。週の真ん中あたりは非常に休みが多くなります。県外からもお客さんが来られるようになったのに、そうした日に当たるとがっかりされてしまいます。
たくさんのメディアが取り上げてくれました。県外からのお客さんが特に夏休みには多くなります。何といっても「地域再生大賞」で2016年、準大賞をいただきました。この受賞をきっかけに視察が増えました。グッドデザイン賞もいただきました。
オリジナル商品も作りました。沼ネコ焼きといい、愛着を持っています。私たちの場所はもともと市場で、ネズミの見張り番としてネコがかわいがられていました。私も大のネコ好きで、ネコのお菓子を作ってしまいました。地元の学校が面白がってくれて、総合学習のネタにされました。小学生が顔をデザインしてチョコバナナ味を考えてくれまして、夏の期間に出しています。

 

▽商店街は埋まり、周辺の空き家も活用へ

 

商店街の店舗は全部埋まりました。それでも、お店を出したいと相談が来ています。では次に何ができると考え、近くの空き家を活用しサテライトショップ作りを始めました。3つお店ができました。2015年に本屋。空き家になっていた時計屋をマッチングしました。ゲストハウスもできました。築90年以上の空き家でしたが、元気な女性が長野県のゲストハウスで修業し、すてきな宿を作ってくれました。2階はコミュニケーションスペースとして旅人と地域の人が交流できるように提供してくれています。3つ目は靴修理兼クラフトビールの店です。修理の間、ビールを飲んでというお店です。
活動は自分たちの力で頑張ろうというのが基本です。ただ、頑張っていると、行政が見ていてくれる。公衆トイレを改修してくれたり、大きな水たまりができる道路をきれいにしてくれたりしました。1回だけですが結婚式もしました。温かな雰囲気でしたね。
さらに、6月にはコワーキングスペースを開設しました。フリーの方に仕事をするスペースを提供し、より多くの方に商店街を使ってほしいとの思いで作りました。徐々に活用され始めています。
月に1回、イベントをしています。朝市です。4~11月に特別出店も含めて70店舗ぐらいでお客さんを迎える一大イベントです。冬はこじんまりと常設店だけで楽しんでもらう冬市をやっていますし、年2~3回は夜市もやっています。
―お客さんのクルマと徒歩の割合は
不便な場所で、コインパーキングはありますが専用駐車場はありません。最近は県外のお客さんが新潟駅から歩いてこられる方も多いし、駅のレンタサイクルで来られる方もあります。ただ、全体にはクルマで来られる方が多いですね。
―いろんなお店はどうやって決めているのですか。
1年ぐらいの準備期間に全部埋まりました。実は、3店舗がそろった時に小さなイベントをしました。そのお手伝いをして起業したいという方を優先しました。さらに、コンセプトである、ここでしか出会えないもの・人・空間を実現してくれる方や熱意のある方を選んで一緒にやっています。

 

“おばちゃん力”が支えるご近所付き合いが原動力
◎原雅廣・匠の町しもすわあきないプロジェクト専務理事(長野県下諏訪町)

商店街に活気を呼び込んだユニークな取り組みを話す 原雅廣・匠の町しもすわあきないプロジェクト専務理事

私の本業は金属表面処理メーカーで、商店街の人間ではありません。下諏訪町は人口2万人。工業の街として戦後は精密機械工業を中心に発展、工業出荷額のピークは1983年で今は3分の1ぐらいの規模になりました。ふかんしてみると、中山道や甲州街道の宿場を中心に街ができましたが、この光景は明治時代から変わっていません。仕事があったので人がやってきたのです。小さな工場団地はありますが、ほとんどが家も工場も商店も同じところに集まっています。こうした街が110年前にできました。
地元の御田町という商店街ができたのは大正元年です。きっかけは工業です。
通りの奥に製糸工場ができ、1900年には国鉄ができました。作ったシルクを横浜に運ぶことになったのです。駅から(工場までを)ショートカットするために道を造ったものが商店街の原型になります。当時は労働集約型。工員さんがたくさん働き、ここを歩きました。戦後はカメラ工場ができ、毎日2千~3千人が歩いていました。私が小学生の頃はものすごい人でした。人が歩くと商店街ができるんですね。ただ、いい時は昭和50年代まで。バブルがはじけ、2003年には200メートルぐらいに30軒ほどあった商店街は、半分ぐらいが空き家になってしまいました。16年たった今は、クラフト系や特徴ある飲食店がたくさんできています。03年ごろから延べ約40軒が開業し、半分ぐらいが移転したりやめたりしていますが、大事なことは、どんどん次がやって来るということです。
どんな人がいるかといいますと、10年程前東京から移住し、木製スピーカーを作っている元教員の夫婦がいます。オリジナルで開発したもので、40万円ほどします。中には100万円という商品もあります。作業場を残して伊那谷へ移転しています。木工で精密な人形を作る女性や布と小物のクラフト作家、飲食店、カフェ、雑貨、いすの修理、和菓子屋、バイオリンの修理工房など、いろんな方が来ています。

 

▽商店街に変化をもたらした3つのポイント

 

なぜ、こうしたことが起きたのかというと3つのポイントがあると思います。一つはレトロな昔ながらの雰囲気があり、おばちゃん達は非常に元気があります。これが重要です。おかみさん会をつくりましたが、それで終わらなかったんですね。先ほどのスピーカー屋さんの場合では(引っ越してきたときに)借りる家の電気や水道の開通が終わっていました。やっといたからねっていうのです。パン屋さんは焼き立てのビザを持って来ました。「作り過ぎたから」っていうんですが、そんなことありませんよね。隣の家からは余分があるからと、毛布が届くのです。ご近所づきあいですね。昔のノリです。仕組みとしてやってなくて、おせっかいおばちゃんが活躍するんですね。
2つ目はたまり場です。カフェや居酒屋ができましたが、これが大事なんです。井戸端会議をします。5歳から80歳超までの人がぐしゃぐしゃと話して、今度はあれをやろうと決まっていきます。これが大事で、今度はこんな人が来るといった話が交わされ、ここでコミュニケーションがとれるんです。
3つ目はデザインの力です。何人かのデザイナーらが商店街で足りない部分を補完してくれます。餅は餅屋といいますが、専門家の力を借りようというわけです。よそ者の力を借りましょうということです。客観性を形にしていくことが大事です。もともといる人たちと新しく来た人たちが手を握ったのです。こうしたことが18年程前から始まりました。

 

▽それぞれが無理なく自立分散型で活動

 

02年12月、母体になる組織が始まりました。当時の町長が垣根をつくらず町内、町外の人が参加して町の課題を話そうという組織をつくりました。その中のグループに商店街活性化グループがあり、活動の源泉となりました。5人でコンセプトをつくることからスタートしました。下諏訪はものづくりの街として、技術だけでなく人や手法も養ってきました。この強みを商店街の活性化に使えるのではと考えたのです。無理をしないとか情報を共有するといった工業的手法を使っていきました。商店街はものを売る場所と決めてかかりますが、ことをつくる場所に変えてはどうかと考えました。ものづくりの街だから、商店街で作ってもいい。大量生産ではなく、ここでないと手に入らないものを作る匠の町にしようとしました。この名前で03年にスタートしました。
空き店舗に店をつくるのはプロセスです。持続性を担保するには教育や仕組みなど総合的な取り組みをしないといけません。ただ、そんなにうまくはいきません。最初にやったことは、まず1軒作ろうということでした。おかみさんたちがミーティングで使っていた小さな店がありました。仲間に声をかけて、会社が終わった午後7時ごろから改装をしました。総工費10万円。機織り機を置いて店を始めました。始めたおじさんは亡くなり、今は娘さんが跡を継いでいます。
商店街の全員が最初から(取り組みを)いいねといってくれなかったんです。できるわけないという人が10人中8人。けれど、この店ができると「あらら」と言って、ちょっとずつ仲間が増えていったんです。全員が賛成するのを待っていると疲れてしまいます。できることからやってみようというわけです。3階建ての昭和初期の木造建築がありました。傾いていて中はボロボロ。床に板を張り塗り直しました。別の建物は間口が狭く、奥が深い構造でした。奥にあるお座敷の建物だけを借りて飲食店にしました。入口からぐるぐると回遊していくと、店が登場する構造で、今は予約しないと入れない人気店になっています。
僕らの組織は結構、ゆるくやっています。街づくりはいろんな人が集まっています。男女や年、職業、住んでいる場所が違い、ちょっとずつ価値観も違います。やりたい人がやるということです。生活時間も違う。楽しくやらないと長続きしません。
実は(出店する)人集めも口コミです。口コミは、いい人がいい仲間を呼んできます。信用です。宣伝すると目がお金の形になった人が来てしまいます。この信用は、おばちゃん達がフィルタリングをしてくれます。最近は商工会でも(出店希望者には)まず御田町で話をして来てといわれます。おかみさん達がいいねっていう(人は)当たるんです。
かっこよくいうと自立分散型プラットフォームといいます。プラットフォームとは、お盆の上にいろんなものが乗っているということです。自立分散型とは、会議をやらなくてもいいのです。それぞれのイベントごとに、できる人がやる。忙しければ出なくてもいい。でも情報は共有します。始めたころはメーリングリストでした。つまり、集中管理と逆です。大学の先生に教わったのですが、ロボットは一つのCPUで全体を動かすとうまくいかないそうです。手や足など、それぞれにCPUを入れて連携させて共同作業をしないと動かないそうです。街づくりも一緒だと思いました。
こうした考えをイベントにしました。下諏訪町はコンパクトで、歩いて1~2時間で一回りできます。秋には、観光協会などがいろんなイベントをバラバラにやっていました。それなら一度にやろうということにしました。大事なことは実行委員会、主催をつくらないことです。もともとあったイベントを持ち寄ったからです。参加してもらうのではなく、参加したい人がやるのです。全体のマップは町がつくりました。できる範囲のイベントを持ち寄るので無理がない。でも、人は出る。2万人の町に1万人ぐらい出ます。7割が地元です。20回余り続けて来ましたが、参加団体はスタート時は8程度でしたが50を超えました。最近は学校が来て、総合学習の発表をしています。イベントが町の節目になったのです。
イベントは目的になりがちです。地域内の連携というか、こういう人がいる、こんな活動をするといった出会うきっかけなんです。なぜ、隣の人と手をつなぐことが大事かというと、人口2万、3万の町は何かをやろうとすると役者が足りません。ならば、隣から借りればいいじゃないかということです。例えば、駒ケ根市が中心になり伊那市や飯田市を巻き込んでプラットフォーム型のイベントもできると思います。

 

▽よそ者から担い手へ変化を

 

次の世代へどうやってバトンを渡すのかは課題です。たくさんの人が移住してきましたが、ずっといてくれるのかということはありました。御田町スタイルというイベントを2011年から始め、東京の吉祥寺や六本木でクラフト作家の商品の展示即売をしました。百貨店の物産展に参加してもいいのですが、ものではなく街を売りたかったのです。エリアアイデンティティの確立です。なぜ、下諏訪で仕事をしているのかを感じてもらいたかったんです。下諏訪で仕事をする意味や価値を背負うことで、彼らがよそ者から担い手に変わります。今はおばちゃん達が街を支えていますが、彼らが支えていかないといけない。それが街が続くということです。彼らは彼らなりにイベントをしています。県内の作家と手を組んで東京で発信事業をしたり、女性が子どもたちを集めてイベントをしたりと自主的にしています。

参加者の質問に答える高岡さん(右)と原さん

この背中を見て、新しい人が来ています。先ほど、沼垂で話が出たゲストハウスです。大正から昭和初期の古い空き旅館を改装しました。オーナーは始めた当時、20代後半だった女性です。いろんな人が来て、たまり場になりました。来た人が居ついて創業しています。マグネットコミュニティーと呼んでいますが、磁石にくっつくようにコミュニティーがつながっていきます。僕らは第1世代。このゲストハウスは第3世代となります。
こういう取り組みは、どういう物差しで測っていいか分かりません。交通量や売上高はゴールではありません。下諏訪っていいね、面白いねというファンが増え、集まってくる。行きたい、住みたいという幸福度という物差しでみるとすっきりしてきます。

 

▽人とのふれ合いがひきつける

 

―空き店舗があっても、持ち主が貸したがらないケースが多いと思います。どうやって乗り越えられたんですか。
原 私たちの商店街が空き店舗ゼロといわれ始めたのは2012年ごろで、活動を始めてから10年ほどかかっています。地権者が外へ出てしまっているケースも多いので、盆暮れに帰ってきたときに、おばちゃん達がわーっと話すのです。それを5年続けていくと、貸してもいいかなと思うようになります。ご近所付き合いは大事で、家賃も若い人が来るのだからとおばちゃん達が話すと決まってしまいます。賃貸は私たちのNPO法人が入って3者で契約することで安心感が出ますし、雨漏りなどは(借りた人が)自分で直すなど大家さんの負担を減らすようにしています。
高岡 沼垂は自分たちが会社を興して丸ごと買い取るリスキーな選択をしたが、スピーディーでした。今は、空き家をマッチングする段階に入り、時間をかけながらやらなくてはいけないと思っています。
―なぜ、株式会社にして取り組んだのですか。
高岡 自分たちのミッションを街づくりにして、動きやすいように組織化しました。行政に頼らないスタンスをとっているので、営利を追求しないといけません。ただ、賃料は起業しやすいように安く設定しました。今となっては、私たちの利益に影響していますが。しかし、雑貨店などを始めて小売りの部分がぐっと出てくるようになりました。不動産管理業も、空き家の開発をして、フィーが入ってくるようにしたいと考えています。
―古民家のリノベーションに都会からの参加者がいると聞きました。どんなことが面白いといっているのでしょうか。
原 よくわかりません。しかし、若い人たちは、自分のやりたいことについて、お金や場所にこだわりがないように思います。都会の喧騒から離れてナチュラルな仕事をしたい人もいるでしょう。それぞれの土地にあわせた人たちが出てくるのではないでしょうか。
高岡 商店街をしていて、若くても年配の方でも人とのつながりを求めるんだなと思っています。大型スーパーに行けば、一言もしゃべらず買い物して帰ることが可能です。商店街だと、店主とどこから来たのなんていう会話から始まる。なぜ、やって来るのかというのは人とつながりたい、ちょっと面白いことをやって共有したいからだと思います。

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